東京高等裁判所 平成7年(う)1450号 判決 1996年2月07日
主文
原判決を破棄する。
被告人を罰金八万円に処する。
右罰金を完納することができないときは、金五〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
原審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
一 本件控訴の趣意は、弁護人保田行雄が提出した控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。
論旨は、要するに、原判決は、被告人がSの右上腕部をつかみ、また同人着用のシャツを引き破るなどの暴行を加えたと認定しているが、そのような事実はなく、被告人は、駅の階段を通行区分に反して逆行してきたSが被告人に衝突したのに謝罪しないで立ち去ろうとしたので、注意を与え、また駅事務室に連れて行くため、シャツの袖口を軽くつかんだところ、Sが被告人の顔面を手拳で殴打してきたので、Sのシャツの袖口を強く握りしめて暴行を制止するとともに、逃走の防止を図ったのであって、このような被告人の行為は、社会生活上相当な行為ないし正当防衛に当たり、罪とならないから、被告人を有罪とした原判決には、事実誤認及び法令適用の誤りがあるというのである。
そこで、記録を調査して検討する。
関係各証拠を総合すれば、以下の事実が認められる。
(1)被告人は、平成六年九月一九日午前八時二〇分ころ、JR秋葉原駅の五番線ホームから三・四番線ホームへと通ずる階段の左側部分を下りの表示に従って下って行ったところ、同部分を逆行してきたS(当時二三歳)と衝突した。(2)被告人は、Sが謝罪しないで立ち去ろうとしたことから、階段を駆け上がって行く同人に途中の踊り場で追いつき、左手でSの右上腕を強くつかんだ上、「ちょっと待て、謝れ。」などと言って謝罪を求め、Sがこれに応じないとみるや、「駅長室に行こう。」などと言って同行を求めた。(3)Sは、急に腕を強くつかまれたことに対する反発心に加え、出勤途上で先を急いでいたことや、この程度のことで駅長室へ行く必要はないと感じたことなどから、同行を拒み、「放せ、放せ。」などと言いながら、力を込めて右腕を前後に振り、被告人の手を振りほどこうとした。しかし、被告人は、あくまでもSを駅長室へ連行しようとして、同人の右上腕をつかんでいた左手に更に力を加えて引っ張るなどし、放そうとしなかった。(4)Sは、被告人がどうしても手を放さないので、これを振りほどくため、平手で被告人の左右顔面を押すように数回たたいたが、その際、被告人の眼鏡が飛び、被告人は全治五日間程度を要する顔面打撲の傷害を負った。(5)これに対し、被告人は、Sが着用していたポロシャツの右袖口付近をつかんで引っ張り、このため同人はその場に転倒し、その際、ポロシャツの襟の後ろ付け根部分が長さ約八センチメートルにわたって破れた。(6)秋葉原駅に近い末広町交番の警察官Kは、同駅職員から乗客同士の喧嘩事案発生の通報を受けて直ちに臨場し、同駅事務室で被告人、S及び駅職員から事情を聴取したが、その際、Sの右上腕には指の跡が三本赤くついており、その指の跡は、本件の約一時間後にも消えていなかった。
所論は、被告人がSの右上腕部をつかみ、また同人着用のシャツを引き破るなどの暴行を加えたことはない旨主張し、被告人も、Sの上腕部をつかんだことはなく、同人を引き倒したこともなく、Sが着用する半袖シャツの右袖口を軽くつかんだところ、Sが被告人の顔面を手拳で殴打してきたので、その袖口を絞り込むように握ったりしたにすぎないなどと所論に沿う供述をしている。しかし、原審証人Sは、前記認定に沿う証言をしているところ、同証言中、右上腕を強くつかまれたとの点については、これに符合する指の跡があったことを示すKの原審証言及び司法警察員作成の証拠品等写真撮影報告書による裏付けが存在している上、被告人が引き倒したのでなければSが自分で倒れるような状況は存在しないこと、Sのポロシャツが破れた原因が被告人の行為以外には想定できないこと、その他供述内容に不自然、不合理な点がないことなどを考慮すると、同証言は、全体として信用性が高い。これに対し、被告人の供述中、前記認定に反する部分は、信用することができない。そうすると、前記認定のとおり、被告人がSの右上腕部を強くつかんで引っ張り、また同人着用のシャツの右袖口付近をつかんで引き破るなどの行為をした旨を認定した原判決に誤りがあるとは認められない。
そこで、以上の事実関係に基づき、その余の所論について検討する。
まず、(1)のような経緯があった場合、被告人がSを呼び止め、あるいはせいぜい肩に手をかける程度の有形力を行使して謝罪を求め、駅長室への同行を求めるのは、社会通念上許容される範囲内の行為と認めるべきであるが、被告人は、その限度に止まらず、(3)のように最初からSの右上腕部を強くつかみ、次いで、(3)のようにSが駅長室への同行を明瞭に拒んで被告人の手を振りほどこうとしたにもかかわらず、あくまでもSに非を認めさせるため駅長室へ連行しようとし、同人の右上腕をつかんでいた左手に更に力を加えて引っ張るなどし、放そうとしなかったものである。(1)にみられるSの非が軽微なものであることも考慮すると、被告人の右行為は、もはや社会通念上許容される範囲内の行為であるとは認められず、暴行罪が成立するものといわざるを得ない。
次に、正当防衛の成否についてみると、Sが(4)のように被告人の左右顔面を平手でたたいて反撃したのは、若干行き過ぎであるが、これに対し、被告人が(5)のようにポロシャツをつかんで引っ張るなどした行為についても、暴行罪が成立するものといわざるを得ない。前記認定の事実経過によれば、被告人がSに対し違法な暴行を開始して継続中、これから逃れるためSが防衛の程度をわずかに超えて素手で反撃したが、被告人が違法な暴行を中止しさえすればSによる反撃が直ちに止むという関係のあったことが明らかである。このような場合には、更に反撃に出なくても被告人が暴行を中止しさえすればSによる反撃は直ちに止むのであるから、被告人がSに新たな暴行を加える行為は、防衛のためやむを得ずにした行為とは認められないばかりでなく、Sによる反撃は、自ら違法に招いたもので通常予想される範囲内にとどまるから、急迫性にも欠けると解するのが相当である。したがって、被告人が(5)のように暴行に及んだ行為は、正当防衛に当たらず、また過剰防衛にも当たらないというべきである。
なお、所論は、本件公訴提起そのものが疑問であるともいうが、関係証拠によれば、本件については、事件当日の平成六年九月一九日、警視庁万世橋警察署において警察官がいわゆる喧嘩の事案として双方から事情を聴取したが、事案が軽微で双方が被害届を提出しなかったことなどから、それ以上の捜査は行われないまま推移していたところ、同年一一月一二日になって、被告人が同警察署を訪れ、自分の受けた被害の方が大きいのではないかと考えるので、相手に与えた被害については自分が犯人といわれてもよいから、しかるべき所ではっきりした判断をしてもらいたい旨述べて、Sから傷害の被害を受けた旨の被害届を提出したため、これに応ずる形でSも本件の被害届を提出するに至り、捜査が再開された結果、双方とも略式起訴されることとなり、Sに対しては傷害罪により罰金一〇万円、被告人に対しては暴行罪により罰金八万円の各略式命令が出され、Sについては右の略式命令が確定し、罰金も納付済みであること等が認められる。右のような一連の経過にかんがみると、本件公訴提起そのものに問題があったとは認められない。
以上の次第で、被告人を有罪とした原判決の判断に事実誤認ないし法令適用の誤りがあるとは認められない。論旨は理由がない。
二 しかしながら、職権により調査すると、原判決は、刑訴法三四七条一項に基づき、「押収してあるポロシャツ一枚(平成七年押第二号符号1)を被害者Sに還付する。」との主文を掲げて還付の言渡しをしているが、関係証拠によれば、右ポロシャツは同条項にいう賍物には当たらないから、還付の言渡しをすることはできないのであって、原判決にはこの点で法令適用の誤りがあり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。したがって、原判決は、結局破棄を免れない。
三 よって、刑訴法三九七条一項により原判決を破棄した上、同法四〇〇条ただし書により当審において直ちに次のとおり判決する。
原判決が認定した事実(原判決の罪となるべき事実中に「同人着用のシャツ右袖口付近をつかんで引き破る」とあるのは、S着用のシャツが破れるほどその右袖口付近をつかんで引っ張った行為を同人に対する暴行として判示する趣旨と認める。)は、平成七年法律第九一号による改正前の刑法二〇八条に該当するところ、所定刑中罰金刑を選択し、所定金額の範囲内で被告人を罰金八万円に処し、右罰金を完納することができないときは、同法一八条により金五〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、原審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項本文によりこれを被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 佐藤文哉 裁判官 金山 薫 裁判官 永井敏雄)